【のりの歴史】高価な海苔は、貴族の食べ物
●高価な海苔は、貴族の食べ物
飛鳥、奈良時代に入り大陸との交流が盛んになり、仏教が渡来し広まるにつれ殺生が戒められ、それまで以上に海藻が食べられるようになります。
江戸時代初期までは、生海苔を乾燥したもので、海苔は保存食として食されます。おなじみの板海苔は江戸時代初期まで、登場しません。
平安時代 鎌倉時代の海苔は、岩のりが高価な商品として贈答用に使用されるようになります。貴族の食事は米を主食として、副食に海藻類を多く食していたようです。
「延喜式」という平安時代中期(927年)の法典に、租税の対象として十数種類の海藻が定められている事からもうかがえます。
十数種類の海藻の中に は、コンブ、ワカメ、ホンダワラ二、そしてアマノリも含まれています。この「延喜式」の中には海藻料理も記録されていて、ムラサキノリが佃煮や味噌汁に使われていたとあります。
また、「五位」以上の官位に支給される食べものとして「紫菜」(ムラサキノリ)が記されています。
律令制では五位以上の者は、高官として特別な待遇を受けていたというので、ここでも海苔は貴重品の象徴であったようです。
鎌倉時代から室町時代になると、食材が次第に豊富になり、山海の珍味が食膳にあがるようになります。すると、海藻料理はやや嗜好化します。
「のり」につ いて言えば、椀盛りに入れたり、汁物に焼きのりを浮かせるというような食べ方で、現代に近い食べ方だったようです。当時、のりは菓子としても用いられていたそうです。
塩味を利かせて短冊に切り、乾燥させた「塩のり」。「のり豆」と呼ばれたものもありましたが、これは豆にアオノリをまぶしたもの。一般家庭にも少しずつ海藻が普及していきました。
●保存食から贈答品へ
日本全国に内乱が広がり戦国時代へ入ると、多くの食糧が戦争用に備蓄化されました。1467年に始まった応仁の乱(戦国時代)では、戦争時の備蓄食料として、焼き米・味噌・干し魚などに混じって、コンブ・アラメ・ヒジキ・アマノリなどの乾物も利用されていました。
その後、大飢饉などが相次ぎ、備蓄食料は更に進化していきます。江戸時代には産業が発展し、各地域の財政を向上させるために地域ごとに特徴的な地域産業がつくり出されます。
陸奥の松前昆布、出雲や隠岐のワカメなどの名産品が生まれました。江戸は、浅草が江戸の町の人々で賑わう場所になり、江戸近郊の農産物、水産物が売られるようになりました。
年の瀬になると葛西浦の漁師が販売した海苔が売られていたといいます。その「柔らかさ」と「色香」は、たちまち人目をひくようになったのです。
現在の観光名所である雷門がある浅草寺(写真)が精進食品の一品として海苔をよく買い上げただけでなく、海苔を各方面への贈答品として使うようになります。
さらに、1625年(寛永2年)東京の上野に寛永寺が建立され、寛永寺の門前に市が立つようになります。寛永寺の僧侶天海という人物が、精進食品・贈答品として、西日本の寺院の「昆布」に対し、江戸の寺院は「海苔」を取り上げ用いました。
「浅草海苔」の名は次第に江戸中に広まり、全国的に知られるようになったのだそうです。